ググるカウボーイ対殺し屋囲碁棋士「シブミ」トレヴェニアン(菊池光訳 ハヤカワ文庫)

 確か中学校三年生の時に読んだ小説。懐かしい。なぜいつ読んだか覚えているかというと、当時隣の席のご近所さんが、美術の中年教師を「渋い!」って崇拝してたの。確かに、渋いおじさんだったんだけど、普通の中学生は「ああ言う中年になりたい」とは思わないんじゃないかな。でも彼は「ああいう渋いおじさんになりたい」っていつも言ってたんだよね。ちょうどそのころ、トレヴェニアンの「シブミ」を読んでたから、勧めようと思ってたんだけど、結局勧めなかった。ぼくと違って数学の得意な頭のいい生徒だった。それが確か中三の時じゃなかったかと思う。二十五年も前の話である。

 さて、この小説、わくわくしながら読んだのは今でも覚えてる。戦前の上海、戦争中、そして敗戦後の日本、バスク地方での洞窟探検。面白かった。現代文明についてあれこれ気難しいことを書いてる割に、とっても面白い冒険小説なんだよね。

 あらすじの紹介は省略。今からみて、特に面白く思った点を二つだけ書かせて。

 CIAをも傘下に置く、西側社会を支配する母会社(マザー・カンパニー)の幹部、ダイアモンドさんは、作戦を考案したり指揮する際、常に自分の補佐官に情報を検索させるのね。補佐官は「ファット・ボーイ」と呼ばれてる何でも知ってるコンピューターを探査して、回答を得る。

“ファット・ボーイにデータを入れるのは大勢の技師、技術者がひっきりなしにやっていることだが、彼から有益な情報を取り出すのには、訓練を積み独特の才能があって勘が閃く芸術家のような人間が必要である。要するに問題はファット・ボーイが多くのことを知りすぎている点である。目当ての主題に関する走査が浅すぎると、知りたがっている情報が発見できないかもしれない。また走査が深すぎると読むに値しない些事で動きがとれないことになる-尿検査の結果、ボーイスカウトの表彰バッジをもらったこと、ハイ・スクール年報での評価予測、トイレットペーパーの好み等々。首席補佐官の特殊な才能は、ファットボーイに対してもっとも適切な質問をし、もっとも適切な深さの走査で答えを要求するきわめてデリケートな感覚をそなえている点にある。経験と勘によって、彼は、索引、順列、項目、走査の深さの選択が常に適切をきわめているのである。”

 ダイアモンドさんが、何をするにも、ファット・ボーイを走査させて情報を得ながら、進めていくやり方が、現代の我々が、何をするにも、Googleで検索して情報を得てから、進めていくやり方にそっくりで、今読むと、にやにやしてしまう。ファット・ボーイから情報を走査するやり方も、Googleで検索するやり方に似かよっていて面白い。1979年発表の本書に、なんでもググりながら生活している現代の我々の姿が戯画化されてるみたい。これが今読んで面白い一つ目。

 ダイアモンド氏はアメリカのエリート階級を戯画化した人物で、サプリメントで必要な栄養素をおぎない、筋力トレーニングで体型を維持し、サンランプで健康的に日焼けし、仕事の緊張をほぐすために秘書とセックスし、自分をカウボーイであるとみなしているエリートである。これは今現在でも、現代アメリカのエリートのパロディとして通用するだろう。

 さて、ダイアモンド氏が外面的な努力を惜しまないアメリカ支配階級の戯画であるとしたら、我らが主人公ニコライ・ヘル氏は、内面的な修行を積んだ、西洋からみた日本の神秘的なイメージの戯画である。

 この小説のレビューや評論を読むと、著者の日本文化に対する深い理解に感心したとか、日本の本質を正確に理解しているとか、われわれ日本人が忘れてしまった日本の精神の奥深さを書いてくれてありがとう、みたいなレビューがたくさんある。ようするに、日本をほめてくれて、高く評価してくれて、みなさん日本人としてうれしいんだろうけど、さて、この小説ほんとに、そうなのかな?

 小説の中で、ニコライ・ヘル氏が囲碁の本を書く。どんな本かというと…

“ニコライは「碁に通ずる花と荊の道」という本を書きはじめた。その本はやがて筆名で出版されて、上級の棋力をそなえた愛好家の間で好評を博するにいたった。内容は、一九〇〇年代の初め頃に行われたある架空の高段者の対局の観戦記という形をとった手の込んだいたずらであった。<高段者>の打つ手は一般的な碁打ちには非常に優れた、時には天才的な閃きのある妙手のように見えることすらあるのだが、もっと程度の高い読者は眉をひそめていぶかるような些細な失着、理解し難い着手を含んでいる。その本の最も楽しい部分は、碁に通じた愚か者の観戦記であった。その記者は、それらの失着をいかにも独創的な妙手であるかのごとく評し、想像力を最大限に駆使して、人生、美、芸術に関連した比喩を付してそれらの手を説明している。その文句は非常に洗練されたもので教養のほどを示しているが中身は全く空虚なものであった。実は、その本は、評論家の知的寄生生活に関する巧妙かつ説得力のあるパロディで、対局中の失着と、観戦記事の理路整然としたナンセンスがあまりにもあいまいであるために、たいがいの読者は重々しくうなずいて同感を表するはずであるのを察知するところがこのパロディの最大の妙味であった。”

 ニコライの本についての作者の解説は、この小説の解説でもある。作者はわざわざ親切にも、物わかりの悪い読者(ぼくみたいな)のために、この小説はこういう小説ですよって書いてくれているのだ。この小説は、ニコライが書いた囲碁の観戦記のパロディと同じく、日本文化論のパロディである。つまり…

 <作者の書く日本文化論は一般的な評論家には非常に優れた、時には天才的な閃きのある名論卓絶に見えることすらあるのだが、もっと程度の高い読者は眉をひそめていぶかるような些細な間違い、理解し難い概念を含んでいる。この小説の一番楽しい部分は、日本文化に通じた作者の解説であった。作者は登場人物の台詞をいかにも独創的な考えであるかのように書き、想像力を最大限に駆使して、人生、美、芸術に関連した比喩を付してそれらの台詞を解説している。その文句は非常に洗練されたもので教養のほどを示しているが中身は全く空虚なものであった。実は、この小説は、評論家の知的寄生生活に関する巧妙かつ説得力のあるパロディで、小説内の誤りと、作者の解説の理路整然としたナンセンスがあまりにもあいまいであるために、たいがいの読者は重々しくうなずいて同感を表するはずであるのを察知するところがこのパロディの最大の妙味であった。>

 ということじゃないのかな。わかるひとにはわかる日本文化論のパロディなのだ、この小説は。読み返して、これが面白いと思った二つ目。レビュー欄に、この小説の日本文化論への同意と賞賛があふれるのを察知することが、このパロディの最大の妙味なのだ。意地悪ですね。ただ、大抵の日本文化論よりもきわめて質が高いために、日本文化論のパロディだと気付く人が少ないのが逆に欠点になってしまった。タイトルの「シブミ」も含めて、この小説に描かれている日本の文化や精神や言葉の解説をあんまり真に受けないほうがいいんじゃない。非常に教養ある作者の、わかった上での冗談でしょ。日本人の登場人物はみなとても魅力的に描かれている。日本人というより、我々がそうありたいと思っている理想の日本人だ。戦前の日本はまことに美しく描かれ、戦後の混乱した日本も臨場感があって雰囲気が伝わってくる。作者は戦後の日本に滞在していたそうだ。もちろん日本文化論のパロディとしての側面はごく一部で、非常に面白い、冒険小説である。登場人物の一人が、

“現実に対する麻痺状態、行動と死の世界への安全な身代わり参加を二時間も経験させてもらったら、人は深い洞察に二、三分耳を傾けるくらいの犠牲を払う気持ちになっていいはずだ。”

と言って、小説の流れを中断させても、現代におけるヒーローについて長広舌を振るうシーンがあって、ぼくはこの、登場人物が読者に直接語りかけるシーンが大好きなんだけれども、彼のおっしゃるとおり、われわれ読者は「現実に対する麻痺状態、行動と死の世界への安全な身代わり参加を二時間も経験させて」もらえる。それはとても優れた冒険小説にしかできないことだ。寸鉄人を刺すような皮肉や文明批評、パロディ、いろんな楽しみが、この小説には散りばめられているけれども、とにかくまず第一に、面白い冒険小説に徹しているのが、この小説の凄味のあるところである。

シブミ〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)
シブミ〈下〉 (ハヤカワ文庫NV)