意思と表象としてのダイヤの指輪。映画「ラスト・コーション」アン・リー(監督)

 ずいぶん昔、つきあってたひとにダイヤのネックレスを買ってくれとせがまれたことがあって(あんたなんにも買ってくれたためしがないじゃないの!)、一緒にデパートに買いに行ったんですけど、まあ退屈でした。ネックレスなんて全く興味がないし、ダイヤなんて、どれもみんな一緒に見える。キラキラ光るのがいいんなら、ガラス玉だっていいじゃないか、なんでこんな高いものを買わなくちゃいかんのか。彼女は次から次へとネックレスを選び、店員さんは次から次へとショーケースから取り出して見せてくれる。果てしなく続くこの繰り返しにうんざりしつつも、なるべく安いのを気に入ってくれるよう心の中で祈るような気持でしたよ。「こういうデザインが良かったらこんなのもございます」とかいって高いものを取り出してくれるなよ店員さん。生きた心地がしないですよ。

 さて、なぜダイヤなんて何の役にも立たないものを欲しがるのか?不思議でしょうがないのです。もちろん、わたしがダイヤに美しさを見いだせないのは、美に対する感受性のない豚みたいな男だからです。しかし、ダイヤのネックレスや指輪が好きな女の人は山ほどいらっしゃいますが、そんなに高い金を費やさなくても、イミテーションで充分じゃないですか?どうせ誰にも見分けがつかないんですから。プラチナとダイヤでできていなくても、同じ見た目なら鉄とガラスでできてたっていいじゃありませんか。見た目だけのためのものなんですから。

 その時彼女に聞いたんです。なんでネックレスとか指輪が欲しいんだろう?そしたら答えはこうでした。どれだけ無駄なことにお金を使ってくれるかで、相手の愛情をはかることができる。女は自分のためにどれだけお金をかけてくれるかで、男の愛を確かめるのだ、と。ダイヤはダイヤであってダイヤではなく、男の自分に対する意志の強さと愛の象徴なのだ。それはそうでしょうけど、じゃあプレゼントが高価であればあるほど愛が強いのだろうか?金持ちじゃなきゃ愛情表現できないのか?とも思ったけど、なんかストンと納得してしまった自分がいました。

 さて十年くらい月日が流れたある日、一人で映画を見に行きました。その映画のクライマックスでわたしは、かつて彼女が言っていたことは正しかったのだなとしみじみ感じたのでした。女はダイヤモンドで男の愛を感じるのだ。死と隣り合わせの状況でセックスするとか、未来のない絶望という共通点で結ばれているとか、二人とも所属する世界から疎外されているとか、そんなくだらないことで愛を確かめるんじゃないんです。女のひとは。あくまでもダイヤモンドのカラット数で愛は確かめられるものなのです。

 世間の人はこの映画のクライマックスの意味を正しく認識しておられない。この映画を観た職場の同僚に「この映画、要するに女はダイヤに弱いってことだよな」と言ったら「えっ、そういう映画だったか?」と驚いていましたが、ほかにどんな解釈があるというのでしょうか。女性に愛を伝えることができるのはできる限り大きなダイヤモンドだけなのです。

 冗談はさておき、主人公が彼女の所属する世界である国民党の諜報機関や学生時代の友人たちからどう評価されるかといったら、ダイヤの指輪で情をほだされて秘密を洩らした大馬鹿者なわけですよね。戦争中の上海は、国民党、共産党、そして日本軍の傀儡である汪兆銘政権の特務機関が三つ巴の熾烈な抗争を繰り広げていました。戴笠率いる国民党軍事統計局は、汪兆銘政権の協力者を次々と暗殺しました。頻発するテロと暗殺に対抗するために、日本軍も傀儡政権に対敵諜報機関を設け、国民党のスパイや協力者を逮捕、拷問、暗殺し、反日活動を弾圧しました。この特務機関のメンバーは、国民党や共産党を渡り歩いている連中が多かったそうで、汪兆銘政権の特務機関「ジェスフィールド76号」を率いる丁黙邨は、戴笠とともに国民党の特務として活躍した人でした。この丁黙邨がトニー・レオン演じる易先生のモデルです。国民党は、汪兆銘政権の中枢にスパイを潜入させて情報収集や要人暗殺を行っていて、鄭蘋茹という美貌の若い女性を丁黙邨に接近させて暗殺をもくろんだのですが、失敗に終わり鄭蘋茹は銃殺されます。彼女がこの映画の主人公のモデルです。

 まあ映画を観るのに、史実はどうでもいいです。歴史に忠実に描かれているわけじゃありません。南京政府高官暗殺未遂事件という歴史は、二人の男女が相手を愛すると自分が死ななきゃならないという特異な状況を設定するために、利用されているにすぎません。原作の短編を読みましたが、原作のストーリーや登場人物をうまく使いつつも、原作とは全く別のおはなしに仕立てています。

 男も女も未来がありません。男は日本の傀儡政権である南京政府の高官ですが、日本の敗北と共に破滅するであろうことは本人もよくわかっています。女は国民党のスパイですが、彼女がスパイなのは、ほかに彼女に目的をあたえてくれるものがないからです。男は何も信じず、厳重な警備に囲まれて暮らしています。職場から家に帰るだけでも、まるで敵地の中を進んでいるかのようで、一苦労です。ちょっとした不注意や、不用意に人を信ずることがあればすぐに殺されてしまいます。女も、もし正体が露見すれば、あっけなく殺されてしまう存在にすぎません。彼女の前にも、彼に近づいた女工作員がいましたが、すぐ正体がばれて殺されてしまいました。

 未来がない、死と隣り合わせの状況にいる二人は、何回も体を重ねます。それはお互いに自分が生きているのを確認するためのものとなっていきます。二人の間には愛情が芽生えてきますが、相手を愛すれば自分が殺されてしまいます。

 愛のために自分を犠牲にするなんてなかなかできるもんじゃありません。でもなんかの拍子に相手への想いが急にあふれて、利害打算や自分の命さえも投げ出してしまう瞬間ってあるのかもしれませんね。

 ダイヤの指輪をつけた女をしみじみと眺めるトニー・レオンの表情はいいですね。「指輪より指輪を着けている君が見たいんだ」なんて言ってね。彼女への愛があふれてる感じがひしひしとつたわってきます。ダイヤの指輪くれてこんな顔されたら、どんな女の人でもコロリとなってしまうでしょうね。あと、大好きなのは逃げ足の速さ。車にダイブするシーンは何度観ても笑ってしまいます。このくらいでなきゃ生き延びれないんでしょうね。

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