客が帰った後の寂しさ。「吾輩は猫である」夏目漱石(青空文庫)

 今もあるのかしら?小学生のころ、ポプラ社から、子供向けに、芥川龍之介とか森鴎外とか夏目漱石の本が、緑の表紙でたくさん出てて、よく読んでた。あと、緑の表紙ではないけど、怪人二十一面相シリーズとか。「吾輩は猫である」ももちろんポプラ社から緑の表紙で出てた。注がたくさん付いてて、寝転んで注を読んでるだけでも暇つぶしになった。行徳の俎なんて言葉を知ったのもこの注のおかげ。緑の表紙は、子供向けのシリーズだったと思うんだけど、本文には特に手を入れず、子供向けにやさしくしたりしないで、現代仮名遣いに直している程度で、注だけたくさんつけてくれてて、子供が日本近代文学(大げさな言い方だけど)に親しむにはいいシリーズだった。

 さて、月日は流れて三十年。おじさんもいっちょ前にkindleなどという電子書籍リーダを買いまして、とりあえずダウンロードいたしましたのがこの「吾輩は猫である」でございます。青空文庫でございます。無料でございます。ありがとうございます。通しで読むのは多分何十年ぶりだと思うけど、全くよく内容を覚えていて、一行一行読むたびに、昔読んだポプラ社版の活字やページの質感や挿し絵や注などが眼前に浮かび上がってくるようで、懐かしかった。昔読んだ本を読み返す楽しみの一つは、昔読んでいた時のことを思い出すことである。寝転んで読んでたな、とか、子どものころの勉強部屋のこととか、外で遊ばないで本ばかり読んでたな、とか。

 内容についてはわたくしごときが申し上げるまでもありますまい。太平の逸民たちが集まって駄弁を弄しているだけの話なんだけれども、なんだけれども・・・・。読み返していて面白く思ったのは、世の中全然太平じゃないんである。自分だけの勘違いだったかなと思ったんだけど、amazonの新潮文庫の内容紹介には

猫を語り手に苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせたこの小説の

とあるように太平の逸民とかかれており、本文をあたってみると

要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜のごとく風に吹かれて

と語り手である猫も苦沙弥先生以下のことを太平の逸民よばわりしている。しかし、その時日本は日露戦争の真っ最中なのである。天下太平どころじゃないのである。日露戦争は、日本が中央集権的近代国家となって初めて、近代国家相手に経験した近代戦であり、日本にとっては総力戦だった。貧しい国家と国民は一丸となってにっくき宿敵ロシアと戦ったのであって、その死闘と勝利は日本民族が初めて経験する悲劇と栄光なのだ。何万人もの兵士が命をなげうって陥落させた旅順要塞。日本海海戦の劇的な勝利。まさに民族の叙事詩ともいうべきこの戦争の真っ最中に、苦沙弥先生とお客たちは、柿をいくら食っても日が暮れないでバイオリンを買いに行けなくて困ったとか、女の声に呼ばれて橋から川に飛び降りたつもりが間違えて橋の真中に飛び降りちゃったとか、かまぼこが板に乗って空を飛んでいるとか、エピキュロスが何言ったとか、料理屋でトチメンボーを注文してみたとか、そんなくだらん話ばかりしてすごしているのである。

 小説の中で、日露戦争について言及されているとこをちょっと拾ってみると、

「どうも好い天気ですな、御閑ならごいっしょに散歩でもしましょうか、旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と促がして見る。主人は旅順の陥落より女連の身元を聞きたいと云う顔で、しばらく考え込んでいたが

こんな感じで旅順陥落も、苦沙弥先生と寒月君には他人事である。語り手の猫も

せんだってじゅうから日本は露西亜と大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔屓である。

と矢張り猫だけに(贔屓にしてくれるとはいえ)どこか他人事である。語り手の猫が、ネズミ捕りの戦略を説明するのに、東郷大将のバルチック艦隊に対する戦略をたとえに出しているが、これも逆にいえば、日本海海戦を猫とネズミの争いにたとえているようで、ユーモアの陰に隠れていささか不謹慎である。

 この小説がもし太平洋戦争時に書かれていたとしたら、憲兵が飛んできて逮捕されることは無いだろうけど、発売禁止くらいにはなったかもしれない。この小説の戦争に対する距離の置き方は非常に微妙である。反戦ではないが、意識して無関心である。そしてこの無関心の裏には、戦争で高揚している日本的精神主義への懐疑と、戦争で儲けている実業家に対する批判がある。そして、列強諸国の侵略に対抗するための、日本の西洋文明の摂取と近代化の成果が、戦争の勝利でしかないことへの諦観がある。

 なんて聞いた風なことを書いてごめんなさい。あと、久しぶりに読んで思ったのは、シュールレアリスムなお話ばかりなんである。かまぼこが板に乗って空を飛んでいる。表のどぶにきんとんを掘りに行く。初恋の娘は蛇飯の食いすぎでハゲだった。近所の金持ちの陰謀で、次から次へと庭にボールが飛び込んでくる。相談に来た生徒に、ただ「そうさな」を繰り返すだけの先生。永遠に続く寒月君の玉すり。「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に入った先きの御っかさんの甥の娘」!

 次から次へと繰り出される客の話は面白いが、それだけに彼らが去った後の寂しさもひとしおである。「猫」以外に、こういう「宴の後」的な寂しさを描いた小説をぼくは知らない。小説の終わりも、客が去った後の寂寥の中で、客が飲み残したビールをなめて、甕に落ちて死ぬという大変寂しい終わり方である。この小説の寂しさは、劇的な勝利のわりには賠償金も取れず国内で暴動まで起きた、日露戦争の後の寂しさとつながっているような気がするのだが、まあ関係ないですね。

吾輩は猫である
吾輩は猫である (定本 漱石全集 第1巻)