自意識対無意識。「器に非ず」清水一行(角川文庫)

 みんな大好き清水一行の時間だよ!最近はあんまり流行らないのかな?ぼくは大好きなんだよ。そこらへんの企業小説とは全然大違いだよ。100年後に昭和戦後文学を代表する作家として、清水一行の名前が教科書に載ってるかもしれないよ。押しも押されぬベストセラー作家だったけど、そんなの関係なく優れた作家なんだから。たんなる内幕暴露小説じゃないんだからね。

 さて、誠に勝手ながらの、清水一行特集第一弾は、「器に非ず」です。

 主人公のモデルはみんな知ってるホンダの創業副社長藤沢武夫。でも、モデルが誰かとか、この小説に書かれていることがどこまで真実に近いかとかは、どうでもいい。この小説は、企業小説というジャンルを超えて、小説なんだから。

 あらすじの紹介はなし。ネタバレはありです。ご注意ください。好きなところをだらだら語らせていただきます。

 主人公には、この人の前ではいいとこ見せたいっていう、かっこつけたい相手が二人いて、ひとりは再婚の恋女房の奥さん。奥さんが死んだあとは、社長の五十島繁哉。五十島のモデルはみなさんご存知の本田宗一郎。主人公の神山は、世渡りの才能とちょっとした小銭稼ぎの才能があって、これといった定職も持たずにブラブラして、それで結構ちょっとした金儲けなんかもしてるんだけど、がんばって口説き落とした恋女房の奥さんの前ではいいとこ見せたいと思ってる。もしそんな存在がいなかったら、ちょっとした商売を営むそこそこの資産家で終わったのかもしれない。

 戦時中、小さな軍需工場を営んでた彼は、戦後、軍需工場や物資の横流し的ブローカー商売でお世話になった商工省の役人に偶然再会し、当時小さな会社だった本州モーターズ(モデルはもちろん本田技研)に勤めて、営業や資金面を担当してくれないかと誘われる。

 この、市谷土手の木陰のベンチで、再会した二人が会話してるシーンがなぜかとても印象的だ。別に特段、作者が文章に技巧を凝らしたり、ストーリー展開的に盛り上げてるシーンではないのだけど。ただ、暑い夏、男が二人(ひとりは元軍需工場主兼元ブローカー。もうひとりは彼に仕事をまわして、そのかわりに自分の愛人の面倒をみさせてた商工省の役人)ベンチに座って堀の水鳥を見ながら、「浜松に発明家がいるんだけど商売が下手でねえ」みたいな話をしているのがなんだか妙に面白い。またそんなところから新しい出会いが生まれて、人間の運が開けていくのも面白い。

 結末について。作者は、本田宗一郎と藤沢武夫の二人同時のさわやか引退について、公式発表の裏にある引退の真相を探り、公式発表的美談にはないある「事実」をつかんで、この小説を書いたそうだ。もちろんその「事実」も書かれているけど、結末で描かれる、二人が引退を決めるシーンは、主人公の神山に救いのある終わりになっている。公式発表の美談にも負けず劣らない美談的な終わりだ。これはいささか意外であって、作者の主人公に対する愛情なのだろうか。モデルになった藤沢武夫の決してきれいごとではない部分への徹底的な取材と、彼をモデルに創造した主人公への愛が交錯しているかのようなラスト。ずうっと、なぜ自分は社長になれないのか、パートナーの五十島社長は自分の事をどう思っているのか考え続けて、すっかり自意識過剰になってる神山が、パートナーの五十島がそんなことそもそも考えもせず、創業当時のままエンジンと技術の事しか頭にないのを知って、二十四年前、初めて会った頃と変わらないパートナーを再確認する。そして、最後に主人公は煩悩を捨てて、「器に非ず」の意味をすとんと納得する。

 天才五十島に対抗して、仕事から趣味、生活まで、五十島を意識して、いちいちもったいぶり、とりつくろってる神山が批判的に描かれているが、われわれが共感できるのは神山である。五十島は天才で、どんな困難も技術の力で乗り越え、次から次へと優れたエンジンやオートバイを開発し、女遊びも底抜けに豪放で、人情にも厚く、われわれ凡人が驚嘆することはあっても共感の対象にはなりにくい。その点神山はとても人間臭いのだ。文学をやりたいとか言って定職にもつかずブラブラしたり、親戚の会社でお金を使いこんだり、女をてごめにして結婚させられたり、その妻子と別れて、文学的理想の女性と再婚したり、役人の女の世話をして、ブローカーで儲けたり、五十島と会うまでの神山の人生は、あまり人に自慢できるものではないと本人も思っているけど、迷走に次ぐ迷走である。五十島のパートナーとして、本州モーターズの経営に心血を注ぐようになっても、ことあるごとに昔の悪い癖が出て、調子に乗って、そのたんびに会社が経営危機に陥るところが面白い。本人も自覚しているけれども、神山が調子に乗ってイケイケどんどん無茶しなければ、会社がここまで急成長することはなかっただろう。神山の無謀なイケイケどんどんのたんびに、資金繰りがつかなくなり、倒産の危機を迎えて、銀行に怒られるんだけども、結局それを乗り越えて、いつものペースに戻って、会社がどんどん大きくなっていくのは戦後の経済成長時代だからか、創業期の会社の勢いというものなのか。

 清水一行の小説には、天才や秀才でなくとも「実社会で応用のきくタイプ」がよく出てくるが、神山はその最たるものである。お金に疎い天才五十島はある意味紋切り型に描かれているが、神山は一筋縄ではいかない屈託の多い「実社会で応用のきくタイプ」で、作者は彼の紆余曲折の人生を丁寧に、主人公として、描いている。もちろん小説の神山もただ者じゃないし、モデルである藤沢武夫もすごく偉い経営者なんだけどね。

器に非ず (角川文庫)