今いる世界。「1984年」ジョージ・オーウェル(新庄哲夫訳、早川書房)

もうすでに1984年にいるのだった。

 オーウェルが「1984年」で描いた、抑圧された管理社会の恐怖なんてものは存在しなかったのである。2015年の我々は、まるで新しいものでも発見したみたいに、喜び勇んで、二重思考を、2分間憎悪を、過去の改変を、進んで行っている。小説の中で主人公を常に苦しめている、戦争も、物資の欠乏も、あからさまな監視も、近所や同僚や妻や子どもまでもが思想犯を密告する制度も、黒い制服を着て棍棒を持った「愛情省」の役人もなしに。

 国家権力の行き過ぎや暴走について批判する人たちが、「オーウェルが1984年で描いたような管理社会がすぐそこまで来ている」なんてよく言うけど、そんなのちゃんちゃらおかしい。国家権力には、高度な監視社会をつくる能力なんてないのだ。あるのは、新しいテクノロジーにおっかなびっくり便乗する能力だけだ。

 「1984年」の全体主義的世界は、党や国家といった強大な権力を持つ支配機関によって強制されたものというよりは、人間が生まれながらに持っている本性にもとづいている。テクノロジーが進歩して、我々の本性があらわに浮かび上がってきたら、そこにあったのは、「偉大な兄弟」がいないオセアニアだったのではないか。少なくとも、「1984年」で描かれた、権力、二重思考、2分間憎悪、過去の抹消と改造などは、全体主義国家の支配とは関係なく、単に我々の本性に根ざしたものに過ぎないと思う。

権力

 思想警察の一員であるオブライエンは主人公ウィンストンにたずねる。党がなぜ権力を求めるのか?ウィンストンは「模範解答」を考える。党は人民の幸福を願っているが、人民はその幸福を自分たちの手で実現できるほど強くはない。民衆はか弱く、真実を直視できず、自由に耐えられないから、党が欺瞞と残酷行為によって支配しなければならない。党の支配エリートは愚かな民衆に代わって自由と真実を引き受け、自己を犠牲にして人民に尽くす献身的な集団なのだ、と。

 これは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で、イワンが弟アリョーシャにした話だ。復活したキリストに大審問官が語るのだ。お前が与えた自由と愛に人民は耐えられないから、我々が自由を奪い、愛ではなく恐怖によって支配するのだ、と。

 しかし1984年における権力者は、大審問官よりもはるかに率直で自覚的である。ウィンストンの「模範解答」に対し、オブライエンは途中で話をさえぎって(君がよもや、そのようなことを口にする程の愚か者だと思わなかったぞ)言う。

党はただ権力のために権力を求めている。われわれは他人の幸福などにいささかなりとも関心は抱いていない。われわれは権力にしか関心がないのだ」

 オブライエンの言う権力とは何か?

権力とは相手に苦痛と屈辱を与えることである。権力とは人間の精神をずたずたに引き裂いた後、思うがままの新しい型に造り直すということだ。」

 かつて権力には目的があるとされた。なぜ恐怖や苦痛によって支配するのか?それは支配される人民の幸福のためである。権力は最大多数の幸福を実現するための手段なのである。しかし、1984年には、権力は手段ではなくなったのだ。それ自体が目的となった。権力のために権力を獲得するのだ。ひとを痛めつけ、苦しめ、支配する、それ自体の喜びのために権力を獲るのだ。それがすべてであり、そして、来るべき世界では人間らしい感情(とされてきた)、たとえば、夫婦の愛も親子の愛も無くなり、相手に苦痛を与えようとする権力ゲームの楽しみが残るだけなのだ。

「常に権力への陶酔は実在するということだ。それは絶えず増大し、絶えず鋭敏になっていくであろう。常に、あらゆる瞬間において勝利のスリルが存在し、抵抗力を失った敵を踏みつけにする快感があるだろう。君が未来の世界を描きたければ、人間の顔を踏みつけるブーツを思い浮かべればよい-永久に踏みつける図を、ね」

 それに対して、主人公ウィンストンが、尋問官であるオブライエンに言う。

「わたしには分かりません-それはどうだっていいことなんです。しかしどうも、あなた方は失敗すると思います。何かがあなた方を敗北させるでしょう。人生というものがあなた方を打ち負かすでしょう」

 このくだりは人を感動させるものがあると思う。ウィンストンの言うとおり、私もそう思いたい。心の底から思う。しかし、オブライエンが正しいことをわれわれは知っているのではないか?

 明治時代の立身出世主義には、世のため人のために働き、偉くなって世の中を導こうという無邪気な大義名分があった。ほんとにそうだったのか怪しいとこではあるが、少なくとも、立身主義者たちはそれを信じていた。しかし、今の世の中は、そんな偽善すら吹き飛ばしてしまった。いま雑誌やネットで見ることができる記事は、いかにして他人と差別化することができるかということしか書いてない。地位、収入、学歴、持ち物、ファッション、ちょっとした教養、これらの点で、いかにして他人よりも優位に立てるか、それだけである。あとはなんにもない。いかにして他人よりも上に立つか。方法はいろいろだ。役人や政治家になって国家権力の一部を行使するか、金を稼いで富を築くか、アーティストや芸能人や知識人になって有名になってセレブと呼ばれるようになるか。しかし根本にある動機はみな同じだ。他人より偉くなりたい、他人に自分のいうことを聞かせたい、自分を顕示したい…。もちろんそれは悪いことじゃないとも思う。むしろよいことだ。そういう欲望がなくなったら、世の中成り立たなくなってしまう。それに本当に世の中の役に立ちたいと思う気持ちは誰しも強く持っているものだ。とくに政治家や実業家で偉くなる人は。

 しかしどんな善い動機にも裏の面がある。世のため人のための立身出世主義に、オブライエンの言うような権力ゲームの楽しみの一面がないとはいえないだろう。そして、なにより我々大衆自身がそういった権力ゲームが大好きなのだ。我々の好きな映画やドラマのテーマは、いかにして他人を踏みにじり、支配するか、いかにして自分を苦しめる敵を殺したかといったものばかりだ。まさか、他人の顔を踏みつけたいから企業家になります、とか、他人を苦しめ痛めつけたいので政治家になりますとか、他人に崇拝され、ファンをゴミのように扱うために芸能人になりますとかいう人はいないだろうけど、我々が誰しも持っている権力欲の一部には、どこかにそういう欲望があるのだと思う。

二重思考

 さて、党の支配を実現させる重要な手段が、「二重思考」である。

二重思考とは一つの精神が同時に相矛盾する二つの心情を持ち、その両方とも受け容れられる能力のことをいう。

 これは、たとえば、党が、地球が宇宙の中心だといえば、そのドグマを受け容れる一方で、惑星の運行を計算する必要があれば、地球が太陽の周りを回っているという理論を認める能力である。この現実をごまかす能力は意識的に行われるものであると同時に、無意識的に行われるものでもあり、そして同時にこの二つの矛盾を完全に忘れ去る能力である。

一方で心から信じていながら意識的な嘘をつく事、不都合になった事実は何でも忘れ去る事、次いで再びそれが必要となれば、必要な間だけ忘却の彼方から呼び戻す事、客観的事実の存在を否定すること、それでいながら自分の否定した事実を考慮に入れる事

 さすがに個人でこんな思考が完全にできるひとはあまりいないと思う。もちろん我々には、本音と建前というものがあって、自分の属する集団の空々しいイデオロギーと現実の矛盾を上手く調整しているわけだ。しかし、相対立する二つの概念のどちらかを、必要に応じて呼び出してきて、必要な間はそれを心から信じること。そして必要がなくなれば忘れてしまい、それと対立するもう一つの概念を心から信じる(必要があるうちは)こと。そして過去に矛盾があったことを忘れること。党の見解と異なる現実を心に受け容れないこと。しかし党にとって必要であればその現実を考慮にいれること。これらを個人が完全にやってのけるのは難しい。

 しかし、個人の心の中で完全に二重思考できるひとはいないかもしれないが、組織や集団ならできる。2たす2が4であると知りながら、公式見解としては2たす2が5であると平然と発表する組織はある。そして必要とあれば、今までの発表をひっくりかえして、2たす2が4であると発表し、過去の矛盾は忘れ去っている組織はある。現実離れしたイデオロギーを人に押し付けておきながら、利害計算のときだけ現実をきちんと把握している組織もある。非難しているわけではなくて、日本政府であれ、アメリカ政府であれ、ナントカ党であれ、民間企業であれ、大学教育機関であれ、宗教団体であれ、非営利団体であれ、趣味のサークルであれ、集団とはみんなそんなものである。そして、その構成員がとんでもない嘘つきの集まりかといえばそんなことは無くて、みんな誠実な人たちである。誠実な人ほど自分の属する組織の公式見解を信じている。そして、会社や政府のトップにいる企業家や政治家は、意外とうまく二重思考を身に付けているのではないかと思う。少なくともそれとわかっていて上手に操ることができるだろう。

 そしてなにより二重思考を、意識的かつ無意識に実践できているのは我々一般大衆全体の世論(新聞とかテレビも含めて)である。まあこれは当たり前のことだけど。不特定多数の意見というのは、常にその場その場で都合のいい理論を引っぱり出してきて、次の日にはもう違う理屈を言ってるようなものだ。世論には代表者がいないから、誰も過去の矛盾を問わないし、世論によって厳しく断罪されたひとが、数年後には救世主のようにもてはやされるなんてざらだ。あったことがないことにされたり、なかったことがあることにされたりしても、疑問を抱かず、われわれはテレビや新聞やネットのニュースを受け容れ続けるだけだ。過去に誰が何を主張していたか、自分が何をどう考えていたかすら、もうおぼえられなくなってしまっているのだ。

 「1984年」の中で、ユーラシアとの戦争が終わり、イースタシアと戦争が始まったと、突然発表されるシーンがある。大衆はそれまで、デモ行進を行い、敵国であるユーラシアに向けた集団的な憎悪で狂乱状態に陥っていたのだが、新たな戦争がはじまった、敵はイースタシアであり、ユーラシアは同盟国になったとニュースが発表されたとたん、一瞬で憎悪の対象がユーラシアからイースタシアへと移る。今まで群衆が持っていたユーラシアを敵とするポスターや旗はスパイによる破壊活動のせいにされ、あわてて捨てられ片づけられた後は、何事もなかったかのように、もとどおりデモと演説が続けられる。今度はイースタシアを憎悪の対象として。

 この光景を、近未来小説の中の、洗脳された民衆の戯画化された姿であると考えてはならない。一晩にして、憎悪の対象であった敵国が模範とすべきあこがれの対象となり、今まで忠誠を尽くしてきた味方が憎悪の対象となる。こんな経験が我々の歴史になかっただろうか?大事なことは、二重思考的に、信じる対象が180度変わっても、変わる前も変わった後もわれわれは常に心の底から信じているということだ。そして現在と矛盾する過去はなかったことにされ、なかったことにできない痕跡は、外国の手先や破壊分子の仕業とされるのだ。

二分間憎悪

 憎悪は常にはけ口を求めている。現在、はけ口として親切にも党が用意してくれるような「兄弟同盟」は必要ない。われわれは毎日、憎悪のはけ口を求めて、適当な対象を見つけては呪いの言葉をあびせかける。実に目ざとく、正確に、われわれは憎悪の対象を見つけ出す。不用意なツイッターの発言や、ブログの書きこみ、芸能人の何気ない一言、どうでもいいようなことにわれわれは怒りを噴出させ、声高に罵り、そしてすぐに忘れる。二分間憎悪とはよくいったものだ。インターネットの発達で我々自身の心の動きがよくわかるようになった。我々は、我々の社会が攻撃してもよいと認めたもの、自分たちよりも弱いもの、そしてささいなどうでもいいことに怒りをぶつけ、一時的な連帯感を味わい、次の日には忘れてしまう。次の日には新しい憎悪の対象があらわれるから。

過去の改変

 われわれは、そのときどきの感情や利害や立場や主張によって、過去の歴史を変えるのが大好きだ。国家や党が、われわれに過去の記録の抹消や改造を求めるのではない。我々大衆が、自分たちの感情や自尊心、怒りや欲望にとって都合の良いように過去を取捨選択するのだ。全体主義国家の指導がなくとも、それは大規模かつ組織的に行われる。そして、面白いことに、誰に強制されることもなく、風向きが変わり、ころっと方針転換される。けっして尽きることのない熱意で、われわれは新しい改変作業にとりかかる。そして、今までの間違った歴史は誰かの陰謀だったということになる。尽きることのないこの繰り返し。

ビッグ・ブラザーのいない1984年

 オブライエンの言うように、人間が、男女の性愛や親子の愛情や友情といった感情をすべて失い、すべての感情が権力への渇望になる、とは思わない。オーウェルの小説が現実になるとは思わない。新興カルト集団とか、極悪ブラック企業みたいな閉鎖的な小集団の中にはかなり近い状況のところがあるかもしれないけど。今の日本には、もちろん言論の自由もあれば、思想警察もいない。拷問も洗脳もない。でも思った以上に我々は1984年に近いところにいると思う。我々が権力を求める動機の一部は、権力の本質である他人を痛めつけ苦しめる快感のためなのだ。「二分間憎悪」も、「過去の改変」も、そしてなによりも「二重思考」も、われわれの社会は誰の指導も受けずにやってのけているのだ。それで世の中成り立っているのだ。われわれは、独裁者やらテクノロジーやらなにやらのせいで悪い方向に進んでいるわけじゃない。オーウェルが「1984年」の執筆をはじめた1946年と2015年現在で人間の本質が変わったとは思わない。ただテクノロジーの発達によって、膨大な量の、双方向的なコミュニケーションとデータのやり取りが、一瞬で行われるようになった今、我々がどういう人間なのか、どういう社会に住んでいるのか、くっきりとあきらかになっただけなのだ。それは、あたりまえだが、「1984年」の人間と社会とまるっきりいっしょなのだ。われわれはすでに1984年にいるのだ。

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)